漫画喫茶で「ONE PIECE」一気読み

先日書いたように今更ながら「ONE PIECE」を読み始めている私ですが、目下夏休み中なので、漫画喫茶に行って徹夜で27巻から44巻までを一気読みしてきました。40歳にもなってそれはどうよと思わなくもないけど、ブックオフで立ち読みするよりは良いか。
44巻は司法島での攻防に決着がついてゴーイングメリー号が沈むところで終わっているのだが、ここまで読んで、「ONE PIECE」の中で語られている政治というものが非常に気になってきた。というか、これほど政治的メッセージが含まれた作品だったのかということに驚いたというべきか。
特に気になったのはアラバスタ編で、ゲリラ側も国王側もそれぞれに「国を想っている」ことがサー・クロコダイルに利用されており、「国を想う」行動をとることが国への害となるという世界観は、ひどく絶望的だった。作品中では、全ての問題はサー・クロコダイルにあったので、彼が倒れ、国王が再び政治の実権を握ったので全ては丸く収まったように描写されている。しかしバロックワークスの社員がゲリラ側にも国王側にも潜伏していて、互いの不信を煽っているシーンの後味の悪さがいつまでも残って、私にはまるでハッピーエンドには見えなかった。
空島編にしても、神・エネルの真の目的に気がつかずに、聖地を巡って争いを続けるスカイピアとシャンディアの人々がいて(パレスチナ問題を想起させる)、最終的に両者ともエネルによって虐殺寸前まで行くというのも、アラバスタ編と同じような構図である。
アラバスタ編でも空島編でも、A側、B側はそれぞれ問題点を抱えていて、それに対してルフィ一行が「本当の問題点はこれだ」というメタ視点を提示するのだが、「ONE PIECE」はこのメタ視点が明らかになるタイミングが、ストーリー上非常に早いように思える。
従来の漫画であれば、主人公はA側、B側片方なり両方なりに関わったり、謎を解いたりしたうえでメタ視点を獲得するというのが定番の流れであるように思う。例えば「銀河鉄道999」の星野鉄郎のイメージだ。
ONE PIECE」はまず先にメタ視点があって、その場で争っている登場人物たちは、何も分かっていない人々として描かれる。読者からは「こいつら何も分かっていないのに何やってるんだ」という歯痒さの対象である。そして、ルフィ達の活躍によりサー・クロコダイルやエネルが倒され、真実(=メタ視点)が明らかになったことで、登場人物に対して「やっと分かったか」ということができる。
この「メタ視点の優越感」が他のバトル漫画には見られない「ONE PIECE」の特徴なのではないかと思う次第である。



それはそうと、私が行った漫画喫茶には「薄い本」のコーナーがあったんだけど、これはちょっと問題だよな。